日露戦争(1)

日露戦争は、1904年に始まり、1905年に日本の勝利で終わりました。

明治維新から、わずか37年で、西洋の大国ロシアを破ったのです。
「富国強兵」を実現した、快進撃でした。

幕末から明治にかけての日本人の偉業には、驚嘆すべきものが多く見られます。
「昔の人は偉かった」という事例に事欠きません。

日露戦争の勝利は、そうした、個々の日本人の努力の集大成だった
というようにも見られます。

日本人だけでなく、アジアの人々にも、希望を与えました。
ベトナム戦争を戦っていた、ベトナム人から
日露戦争の話がでたという事例も聞きました。

ただ、当時の日本人にも、そして今の日本人にも
広くは知られていない事実もあります。

坂の上の雲」を書いた、司馬遼太郎は、
この作品の映像化に、許可を与えていなかったそうです。
戦争を賛美する勢力に利用されることを嫌っていたようです。

日露開戦を決定するにあたって、御前会議が開かれています。
この時、ただ一人反対する人がいました。
明治天皇です。

おそらく、日本の国力から、勝利に確信が持てなかったのではないでしょうか。

日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させ、
難攻不落といわれた旅順の要塞を落とし、
日本は華々しく、勝利したと思われていました。

人々は熱狂し、提灯行列をして、浮かれていたのです。

それだから、ポーツマス条約に、当初予想されていた、
「賠償金支払い」「沿海州割譲」がないことに
国民は憤慨しました。

講和条約破棄、戦争継続を求める声が
過激化、暴徒化して、
「日比谷焼打事件」となります。

日比谷焼打事件:死者17名、負傷者500名。
内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される。

国民は、知る由もなかったのですが、
日本は、戦費、兵員とも底をつき、戦争継続はできない状況でした。

もう少し戦争が延びていたら、
日本は負けていたかもしれなかったのです。
日露戦は、薄氷の勝利だったのです。

だから、日本全権の小村寿太郎外務大臣)は、妥協したのです。
決して、屈辱外交ではなかったのです。

日本海海戦で、ロシアバルチック艦隊を撃破した、連合艦隊司令長官の、
東郷平八郎と、旅順を落とした、乃木希典は、
軍神として、国民に熱狂的に迎えられます。

しかし、乃木の内心は、いたたまれなかったのではないかと、
思います。

乃木は、ただ、「突撃!」を繰り返すだけで、
いたずらに戦死者を増やすだけでした。

「あの司令官の下では、戦いたくない」
というのが、部下たちの気持ちでした。
人心は、完全に乃木から離れていました。

こんな状況を見かねてか、乃木の友人である、児玉源太郎が、
一時的に乃木の指揮権に取って代わり指導したことで、
何とか二百三高地を陥落させることができたのでした。

そんな乃木を、かばい労ってくれたのが、明治天皇でした。
乃木が天皇に並々ならぬ恩義を感じていたのは、理解できます。

乃木は、明治天皇の大喪の日に、夫人とともに殉死します。