1945年7月26日、
日本への降伏要求の最終宣言として
ポツダム宣言が発せられました。
日本国政府(鈴木貫太郎内閣)は、
8月14日に、天皇の御聖断を仰ぎ、
ポツダム宣言の受諾を最終的に決定し、
同日連合国側に伝えました。
8月15日、全国民に対し、
玉音放送が放送されました。
鈴木貫太郎内閣は、
御聖断を仰いだ責任を取って、
8月17日に総辞職します。
そのあとを受け発足したのが、
東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣ですが、
この内閣は戦前戦後を通じて
憲政史上最短の
54日間という短命で終わっています。
そして登場したのが、幣原喜重郎内閣です。
日本の戦後は、この内閣とともに始まった
とも言えるのではないでしょうか。
日本の戦後を形づくる上で重要な働きをした、
この内閣で、憲法改正担当の国務大臣として入閣したのが、
法学者の松本烝治でした。
松本が中心となった「憲法問題調査委員会」(松本委員会)により、
「憲法改正要綱」(松本試案)がまとめられ、
GHQに提出されました(1946年2月8日)。
提出に先立って(2月1日)、
検討段階の1私案(「宮沢甲案」)が
毎日新聞にスクープされ掲載されますが、
新聞各紙は社説で
委員会の姿勢を「保守的・現状維持的」である
として批判しています。
GHQは、これらの記事の内容や
世論の動向を分析検討した結果、
日本政府による憲法改正作業に見切りをつけ、
独自の草案作成に踏み切ることになります。
マッカーサーが急いだ理由として、
2月26日以降、極東委員会から天皇制の廃止を
要求されるおそれがあったということが言われています。
マッカーサーは、天皇制維持の立場でしたが、
ソ連やオーストラリアなどが入ってくると、
天皇の戦争責任が追及される可能性がありました。
マッカーサーは、2月3日、
民政局長ホイットニーに
憲法草案の起草を命じます。
こうして作成されたのが
「マッカーサー草案」(GHQ草案)です。
この「マッカーサー草案」を元に
改正憲法案は作成されることになります。
いわゆる「押しつけ憲法論」の根拠はここにあります。
「押し付けられた」
という思いを一番強く抱いたのは、
松本烝治その人だったのではないでしょうか。
「憲法改正要綱」(松本試案)は、
まだ正式な憲法草案ではなく、
GHQの意見を聞くために
1946年2月8日に、
GHQに提出されました。
そして、松本らは回答を聞くために、
2月13日にGHQを訪問したところ、
民政局長ホイットニーから、
松本試案に対する拒絶を言い渡され、
代わりに「マッカーサー草案」を手渡されました。
あまりの衝撃に茫然自失となったのではないかと思います。
あきらめきれない松本は、
2月18日に「憲法改正案説明補充」をGHQに提出し、
再度の説明を試みますが、
ホイットニーによって再び拒絶されます。
日本国政府は、2月26日の閣議で、
「マッカーサー草案」に沿った憲法草案を
新たに起草することを決定します。