「張作霖爆死事件」を悔やんだ昭和天皇の思い

昭和天皇は、今日の見方から見ると、
民主主義者ではありません。
したがって、リベラルではありません。

しかし、当時においては、
極めて国際感覚、バランス感覚を持った
教養人、常識人でした。

文字通りキーパーソンであったわけで、
その発言は、時に歴史を読み解くヒントを
与えてくれることがあります。

戦後、天皇は、初代宮内庁長官に、
戦前を述懐して、「下剋上」という
ことばを使っていました。

軍部が、上(天皇)の意向を無視して勝手に動き、
ついには、みんなが(自分も含めて)
その流れに押し流されてしまったと言っていました。

あのとき、厳しく処断していれば、
と後悔していたのが、
張作霖爆死事件」(1928年6月)です。

張作霖爆死事件」があり、
その後「満州事変」がありました。
そして、十五年戦争アジア・太平洋戦争が始まりました。

満州事変」は、「張作霖爆死事件」を先例にして
起こされています。

張作霖爆死事件」の犯人は、関東軍でした。
首謀者は、
関東軍参謀 河本大作大佐です。

ところが、関東軍は、国民党の仕業と見せかけ、
当時の一般国民には犯人は不明でした。

一般国民に犯人が明らかになるのには、
戦後、東京裁判での証言を待たねばなりません。

しかし、当時の上層部では、
少し、事情は違っていたようです。

東京裁判関係の資料によれば、
田中義一首相は昭和天皇に対し、1928年12月24日

「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、
其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」

と河本大佐の犯行を認めたうえで、
軍法会議を行う旨の上奏を行っています。

ところが、陸軍は軍法会議を回避して行政処分で済ませるため、
1929年5月14日付で河本を内地へ異動させます。

同年6月27日、田中首相は「陸相が奏上いたしましたように
関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、
警備上の手落ちにより責任者を処分致します」と行政処分を上奏します。

これに対し天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と田中を叱責し,
鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。
再びきくことは自分は厭だ。」と語ったそうです。

この天皇の言葉で、田中義一内閣は総辞職します。
結局、河本大作大佐は、1929年8月停職処分となりますが、
軍法会議は行われませんでした。

ここでの甘い処分が、のちの満州事変につながったと
昭和天皇は見ているのです。

そうだと思います。
勝手に軍を動かしても、おとがめなしとなれば、
ますます軍部は増長して、自分の勝手な思いで、

柳条湖事件(1931年)を起こします。
これが、満州事変の発端で、
十五年戦争アジア・太平洋戦争へとつながったのです。

規則を破っても、法を犯しても、なあなあで、
厳しく処分されない風潮が戦争に発展したのです。

そしてこの風潮は、今の政治にも見られます。
法を守ろうという意識の低い人たちが
政治をしていることが問題で、危険なのです。