福島県南相馬市小高区にある
「おれたちの伝承館」では、
芸術家たちの美術作品が展示され、
各作品には作者のコメントが付されています。
その中に、とても印象的なものがありました。
それをここに転記します。
<以下、転載>
体と人生が傷ついた私たちは、
社会から透明にされたまま、
日々を生きています。
311子ども甲状腺がん裁判
第15回口頭弁論(2025年9月17日)
「原告8」瞳さんの意見陳述全文
震災が起きた時、私は小学6年生でした。
ランドセルを玄関に放り投げて学校に行き、
ブランコに乗っている時に大きな揺れがきました。
原発が爆発したことは、よく覚えていません。
ただ、将来自分ががんになって、
病院に行く想像をした一瞬は覚えています。
いつかがんになって死ぬかもしれない。
12歳で、そういうことを、
なんとなく受け入れていました。
原発事故後の世の中の急な変化で、
感情が麻痺し始めました。
目の前が薄く暗くなり、
沼の中を歩いているような苦痛な日々でした。
でも毎日学校があって、部活に行き、友達と家に帰る。
その繰り返しで、
ニュースで語られる「フクシマ」と、
自分の生活はかけ離れていました。
外国では、福島に住人は住めないと
言われているらしいけれど、
私の目の前には震災すら日常になった、
日々がありました。
高校2年生のときに甲状腺がんが見つかって、
手術することになりました。
どうしてがんになったのか、
先生に聞くと、
「この大きさになるには
10年以上かかるから、
原発事故の前にできたもの」と説明されました。
私は、「原発事故と関係ない」
というその言葉を素直に受け入れました。
医師は私を見て
「みんなあなたのようだったらいいのに」
と言いました。
その当時、「甲状腺がん」という言葉は
原発事故と直結していて、
この診断を聞いて、
普通でいられる人は
ほぼいないのだと感じました。
検査も手術も、異様に軽い雰囲気で進められて、
見つかってラッキーだったね。
せっかくだし取ってしまおう。
とってしまえば大丈夫。
そんなノリでした。
手術を終え、大学に進学すると、
私は激しい精神症状に
苦しめられるようになりました。
幻聴、幻覚、錯乱状態、発作。
身がちぎれそうな、激しい苦痛が9年続きました。
その時はなぜ、そのような症状が出るのか、
わかっていませんでした。
でも、大学卒業後に受信した精神科で、
震災のPTSDと言われました。
震災や原発事故があっても大丈夫だった。
がんになっても大丈夫だった。
そう感情を麻痺させてきたツケを払うように、
心も体も壊れていきました。
裁判のためにカルテを開示すると、
1回目の検査の時は、
がんどころか、結節もありませんでした。
わずか2年で、1センチのがんができたのです。
しかも、リンパ節転移や静脈侵襲がありました。
「事故前からあった」
という医師の発言は嘘でした。
この事実を知り、私の精神状態は悪化し、
提訴後、会社を辞めました。
私は9年前、手術の前日の夜、
暗い部屋で1人、
途方もない不安や恐怖を抱えていました。
その時、私の頭に浮かんだのは、
「武器になる」という言葉でした。
私は当時、
「甲状腺がんの子ども」を
反原発運動で利用する人に怒っていました。
私は、大人たちの都合のいい
「かわいそうな子供」にはならない。
なにがあっても幸せでいよう。
そう思いました。
不安と恐怖と混乱で、
溺れてしまいそうな中、
手繰り寄せて、掴んだものは、怒りです。
尊厳を侵された時、
怒りが湧くのだと知りました。
それをかすがいに、
甲状腺がんへの不安を乗り越えた高校生の時の私と共に、
今、私はここに立っています。
でも大人に利用されたくないと、強く願っていた私は、
気づくと、国や東電に都合のいい存在になっていました。
胃がねじきれそうなほど悔しいです。
私が受けてきたものは構造的暴力です。
命より、国や企業の都合を優先する中で、
私たちの存在はなかったことにされている
と気づきました。
私たちは論争の材料でも、
統計上の数字でもありません。
甲状腺がんで、体と人生が傷ついた私たちは、
社会から透明にされたまま、日々を生きています。
私にとって福島で育つということは、
国や社会は守ってくれないということを
肌で感じることでした。
十分すぎるほど諦め、失望しました。
でも、私は、抵抗しようと思います。
命と人権を守る立場に立った、
どうか独立した、
正当な判決をお願いします。