報道のあり方が問題ですね、
というのを(1)で指摘しましたが、
その受け手である、
有権者の側の条件を論じます。
<条件2:有権者>
玉石混交の情報の中で、どれが正しい情報か
を取捨選択するのは、情報の受け手である
読者・利用者の側になります。
ここで、情報リテラシー(読み書き能力)が
問われます。真偽を見分ける能力です。
そして、有権者自身が民主主義的価値観を
持っているかということが重要になります。
民主主義的価値観を持っていないと、
簡単に「全権委任法」を許容し
独裁政治を招くことになります。
民主主義が成立するために、
有権者に求められる条件には、
①情報リテラシー と
②民主主義的価値観
があると思います。
フェイクニュースがネット上を飛び交っており、
人々が陰謀論にたやすく取りつかれて、
民主主義が危うくなっている中、
情報リテラシー教育の重要性が指摘されています。
北欧フィンランドの小学校で実践されている
情報リテラシー教育についての記事を
読んだことがあります。
当時、新型コロナ禍の中、
外出やパーティーの自粛が求められていた時に、
30代の女性の首相が
パーティーではしゃいでいる動画が出回り
ひんしゅくを買っていました。
クラスの先生が生徒に
「首相の何がいけなかったのでしょうか?」
という設問を出して、
生徒は、ネット上の様々な記事を
比較して、自分なりの答えを導きだす
ということがやられていました。
日本では、ありえない光景ですね。
日本の学校では、過度に、
政治的なことを取り扱うのを
恐れているように見受けられます。
東北の高校で、新聞部の生徒が
選挙期間中に模擬投票のようなことを
やろうとしたところ、
先生からストップをかけられた
という記事を読んだことがあります。
ドイツでは、大多数の高校で、
実際の選挙の候補者名を使用しての
模擬選挙が行われていて、その結果も公表されている
というのを読んだ記憶があります。
ドイツでは、
若者の社会に対する意識が高いですが、
日本では、若年有権者の投票率の低さが
目立っています。
社会への意識も低いようです。
広島、長崎の被爆地では、
平和教育の日があるそうです。
被ばく者から、生徒が直接話を聞く
ということもやられているのですが、
その被ばく者の話の途中で、先生がストップをかけ、
被ばく者は話を続けられない
ということがありました。
それは、被ばく者が
核兵器禁止条約の話をしようとしたときに
先生が話を中断させたのです。
先生は、明らかに政権に忖度して、
こういう行動を取っています。
さまざまな意見を聞き、
それを自分の頭で批判的に考察するところから、
情報リテラシーは育つと思いますが、
先生の行動は、その芽をつんでいます。
リテラシーは、読み書き能力のことなので、
これは、言葉・言語にかかわるものですが、
ネットの時代は、言葉以上の力を持って、
映像が視覚に働きかけます。
これは、強力ですね。
ヒトラーが鏡に向かって
一生懸命に演説の練習をしている
映像が残っています。
視覚効果の重要性を彼は十分に
認識していたのです。
安倍晋三も、パフォーマンスを重視していました。
ほとんど毎月、東北を訪問したり、
歴代総理の中では断トツに外遊する回数が多かったですね。
施政方針演説をするときに、壇上まで走って行ったり、
閣議で官邸に入るときは、常に速足で歩いていました。
衆議院の解散を表明するのに、
わざわざ鹿児島まで行って、
桜島をバックにスピーチをしていました。
令和の新天皇即位のイベントの後、
安倍内閣の支持率がぐんと上がりました。
(その前までは、安保法制で下がっていたのですが)
安倍さんの背中を見ていた
高市早苗は、パフォーマンスの重要性を
十分に学んでいたと思われます。
情報リテラシーは、有権者の今現在の能力ですが、
判断のベースとして、
民主主義的な価値観を持ているか、
歴史を知っているか、
といったこれまでに身に着けたことも重要です。
教育、教養が問題になります。
民主主義的な価値観が
自然に育まれるということは、ありません。
歴史の教養が勝手に身に付くということはありません。
自民党の長期政権のもとで
なされた文部行政が
今の教育レベルをもたらしています。
私たちが中学3年生の時、社会科は
1年かけて「政治・経済・社会」をやりました。
今は、「公民」という名前で、
3年生の半年間になっています。
教科書も半分になり、
私たちの時は、巻末に日本国憲法全文が
収録されていましたが、今は収録されていません。
憲法を読まないで、
民主主義が身に付くのか
はなはだ疑問です。
安倍長期政権の間、文部大臣は、
ほとんど安倍派が占めていました。
彼らの歴史観が教科書検定に
影響しています。
批判的に物事を吟味し、
自分で考える思考力を養うことよりも、
「和を以て貴しと為す」(十七条憲法)ということで、
全体・多数への同調を奨励する学校教育に
なってはいないでしょうか?