保阪正康という人がいます。
昭和史を専門とする歴史家です。
「実証的に研究する」ことを信条にしておられ、
数多くの歴史の証言者に直接インタビューしている方です。
この保阪正康が東条英機の遺族にインタビューしています。
遺族の方が、次のようなことを語られたそうです。
真珠湾攻撃の何日か前に、
夜、物音がするので、東条の寝所をうかがったところ、
東条が、皇居の方を向いて一人座り、泣いていたそうです。
家人は、気づかれないように、そっとその場をはなれたということです。
日米開戦を決めた、1941年12月1日の御前会議と、
12月8日の真珠湾攻撃の間のどこかでの話です。
これは、第一級の歴史的証言だと思います。
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という、
戦陣訓を告示した東条が、
神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会で、万歳三唱をとなえ、
学生を戦場へと送り出した東条が、
泣いていたのです。
これは、驚きでしたが、
さて、その涙の意味は何だったのでしょうか?
保阪正康の解釈とは違いますが、私の解釈は、
次のようになります。
天皇の意向に沿えなかった。
天皇に対して申し訳なかった、
という涙だったと思っています。
第三次近衛内閣の後の首相に、
陸軍大臣だった東条が選ばれます。
その理由は、
1.軍部を抑えられるのは、もはや、軍人しかいない
2.東条は、忠君の人だから、昭和天皇の意向を尊重するのではないか
ということでした。
東条を首相に指名するという案を聞かされたとき、
昭和天皇は、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ということだね」
と言っています。
そして、首相になった東条に対して、
天皇は、「和平の方向で」ということを伝えています。
東条は、これを受けて、
「和平だ、和平だ」という言葉を出していたようです。
しかし、結局は、軍部の強い意向の中で、
日米開戦へと進むことになりました。
忠君・東条としては、
天皇に対して、なんとも相済まない、申し訳ない、
という思いだったのではないでしょうか。