毎日新聞に月に一度掲載される、
「井上寿一の近代史の扉」
というコラムがあります。
戦後80年を目前にして、7月19日は、
「なぜ継戦したのか」
という題目でした。
1944年7月、サイパン島が陥落し、
日本本土はB29の爆撃圏に入ります。
以後、日本の犠牲者は、戦争末年に集中しています。
せめて1944年中に戦争が終結していれば、
犠牲者はあれほど多くはならなかった。
ということで、
「なぜ継戦したのか」という記事でした。
この記事の中で、
「4月5日にソ連が日ソ中立条約の廃棄を
通告した」とありました。
私は、8月9日に、いきなり、
ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して、
対日参戦、満州に侵攻したと思っていました。
確か、そういう歴史を読んできたと思います。
でも、この記事では事前に通告されていたことになります。
これには、ちょっと解説が必要です。
まず、伏線として、ヤルタ会談があります。
ヤルタ会談(1945年2月4日~11日)は、
ソ連のクリミア半島のヤルタで行われた、
米・英・ソによる、連合国首脳会談です。
英は、チャーチル首相、
米は、ルーズベルト大統領、
ソは、スターリン書記長が出席です。
ここで、ソ連の対日参戦も協議され、
ヤルタ秘密協定が締結されました。
ドイツ降伏後、2か月または3か月を経て、
ソ連が対日参戦すること、
千島列島がソ連に引き渡されることなどが決定されます。
この協定に従って、
ドイツ無条件降伏(1945年5月8日)の
約3か月後の8月9日、
ソ連は日本に宣戦布告し、
満州に侵入、千島列島・樺太を占領します。
井上教授の記述のように、
1945年4月5日、モロトフ外相は、
佐藤尚武駐ソ大使に、中立条約を延長せず、
「廃棄」することを通告しました。
日ソ中立条約は第3条で、
・条約の効力は5年間
・期間満了1年前までに、
両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は
5年間自動延長される
となっていました。
条約が発効したのは、1941年4月25日ですから、
最初の5年間の期限は、1946年4月25日で、
その1年前までに、廃棄通告したということです。
モロトフ外相は、佐藤大使に、
「ソ連政府の条約破棄の声明によって、
日ソ関係は、条約締結以前の状態に戻る」
と告げますが、これに対して佐藤大使は、
条約の第3条に基づけば、あと1年間は
有効なはずだと、返答します。
モロトフ外相は、「誤解があった」として、
日ソ中立条約は、期限切れとなる、
1946年4月25日までは有効だと認めています。
したがって、
8月9日にソ連が満州に侵攻したのは、
日ソ中立条約違反という日本側の主張は、
法的には正しかったのです。
ただ、私たちが理解していたように、
「いきなり」ではなく、
ソ連側からは、「通告」があったのも事実です。
そして、大本営は、通告を受けて、
冬季までには、ソ連参戦があると予想しています。
さらに、ポツダム宣言(7月26日)が出されたころには、
大本営は、ソ連参戦を秋ごろと見込んでいたそうです。
末期的な症状の中でも、軍部(特に陸軍)が、
ひたすら戦争継続に執着したことについて、
井上教授は次のように推測しています。
「占領と被占領は、鏡像関係である。
陸軍は、自らが中国や東南アジアで
おこなっていることと
同じ目に逢うのを
おそれていたのかもしれない」